バイオグラフィ@ヤング・ギター[エクストラ] 01 エドワード・ヴァン・ヘイレン奏法 Vol.1

シンコーミュージック刊「ヤング・ギターエクストラ – エドワード・ヴァン・ヘイレン奏法 Vol.1」に掲載されていた文章です。

ヤング・ギター[エクストラ] 01 エドワード・ヴァン・ヘイレン奏法 Vol.1

1957
年1月29日オランダのナイメヘンにて、オランダ人の父親ヤン・ヴァン・ヘイレンとインドネシア人の母親ユージニアの間に生まれたエドワード・ヴァン・ヘ
イレン(本名 Edward Lodeweijk Van
Halen)は、クラリネットとサキソフォンのプロ奏者だった父親の勧めで、5歳から兄のアレックス(dr)と共にクラシック・ピアノのレッスンを受け始
める。両親としてはアカデミックなピアニストにしたい意向があったようだが、8歳の時に一家はアメリカへ移住。オランダ時代とは打って変わってカリフォル
ニアでは周囲から聞こえてくる音楽はロックンロールばかりという事で、当然子供達の興味はそれまでのクラシック関連よりもロックンロールへと移って行く。
そして、11歳になったエディーはデイヴ・クラークに憧れてドラムを叩き始めるようになる。

両親から借りた120ドルでドラ
ム・キットを手に入れたエディーは、それから日々ロックンロールに没頭するが、借りた金を返すための新聞配達をしている内にアレックスがドラムを叩くよう
になり、自分よりもアレックスの方が遙かに上達が早い事を悟ったエディーは、ドラムの練習を止めてギターに転向。アレックスから借り受けたガット・ギター
をつまびくようになる。まもなくガット・ギターでは飽き足らなくなったエディーは人生で初めてのエレクトリック・ギターを入手。70ドルで購入した日本製
テスコのモデルだった。

ギターを弾くようになってからのヒーローは、CREAM時代のエリック・クラプトンだった。その他
ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックス、ジミー・ペイジというお決まりのビッグ・ネーム達も彼の“師”ではあったが、ブルースナイズしたクラプトンのプレ
イには特別な意識で接していたようだ。「Crossroads」「Sunshine Of Your Love」「White
Room」などは格好のコピー・ナンバーだったという。

後日エディーは、その昔クラシック・ピアノを習っていた事がギター・
プレイにも役立った・・・という事を話しているが、そこで得たメロディー感覚をギターに転用し、メジャー、マイナーのあらゆるヴァリエーションをスケー
ル・トレーニング。さらに、暇があればアレックスのドラムとセッションを繰り返した彼は次第に腕を上げ、13歳頃からアレックスと共にTHE
BROKEN COMBS ~ REVOLVER ~ TROJAN RUBBER COMPANY ~
MANMOTHといったバンド遍歴を重ねていく。そしてこのMANMOTHこそが、VAN HALEN
の母体になったバンドである。地元ロサンゼルスで評判になった彼らは、人気を二分していたTHE RED BALL
JETSのフロントマン、デヴィッド・リー・ロスを加え、’75年、“VAN HALEN”と改名(他にRAT
SALADEという名前も候補に挙がっていたらしい)。以後ハリウッドを拠点にクラブを廻り、KISSのジーン・シモンズから資金援助を受けてデモ・テー
プも制作している。

その後デビュー・アルバムから6枚目までをプロデュースする事になるテッド・テンプルマン、ワーナー・ブ
ラザーズの社長モー・オースチンに出会い、電撃的にレコード契約。そして’78年、リリースされたデビュー・アルバム「VAN
HALEN」は、150万枚を越すセールスを記録。リリース後、JOURNEYやMONTROSEのオープニング・アクトを努めた彼らは、一気にその名前
を浸透させていき、その年の6月には初来日。続く翌年の2nd「VAN HALEN
II」は、全米アルバム・チャート6位までランクを上げ、まさに待望のスーパー・ロック・バンド登場!となった訳だが、それは同時に、エディー・ヴァン・
ヘイレンという、絶えて久しかったニュー・ギター・ヒーロー誕生の瞬間でもあった。特にタッピング奏法の出現は革命的だったし、ロック・ギター史上に語り
継がれるエポックメイキングな出来事だった。当時のエディーの話によれば、タッピングは他の人が演っていない自分だけの新しい奏法がないものか・・・そう
いう模索の中から出てきたアイデアという事だが、そのアイデアの根源には少年時代にRED
ZEPPELINのライヴで目撃した、ジミー・ペイジによる左手トリル+右手の余弦ベンド奏法(「Heartbreaker」で披露された)からのインス
パイアがあった事もエディー本人の口から語られている。その後、このタッピングという特殊奏法はロック界に留まらず、ジャンルを越えてギター・シーン全体
に浸透・・・もはや“特殊”とは言えない奏法になっていく訳だが、当時の衝撃は、’81年「FAIR WARNING」収録[Mean
Street」のイントロで聴かせるパーカッシヴな変則タッピング技、スラッピング・プレイの謎が説き明かされるまで続く事になる。


ディーのプレイに於いては、バッキングの巧さも忘れる事は出来ない。ソロに注目は集まりがちだが、ロック・バンドのサウンドを支えるのはバッキング・ワー
クに他ならない。クラプトン、ベック、ペイジ、ヘンドリックス等々、歴史に残るソロイストは同時にグレイトなバッキング・プレイヤーだったが、エディーも
その点では同様。いや、事によっては彼ら以上かもしれない。尚、エディーが当時からギタリストとしてズバ抜けた評価を受けていたという事実は、マイケル・
ジャクソンからオファーを受けた事からも伺える。’82年にリリースされた「THRILLER」収録の「Beat
It」にフィーチュアされた彼のソロ・プレイは、一般の音楽ファンにもロック・フィーリングのクールさをアピールしている。


て’83年、VAN
HALENにとって転機となる作品「1984」がリリースされる。言うまでもない、このアルバムからシングルカットされた「Jump」が5週間に渡って全
米No.1・・・、アルバム自体も最高ランク2位を記録。さらに、続けてシングル化された「I’ll
Wait」と「Panama」もベスト10圏内に入るビッグ・タイトルとなり、彼らは一躍メジャーなエンターテイメントの道を進む事になった。が、派手な
活躍で節目を作ったバンドから、翌’85年にデイヴが脱退。VAN
HALENは新たなシンガーとしてロック界の大ヴェテラン、サミー・ヘイガー(元MONTROSE ~ ソロ)を迎え入れる事になった。

’86
年、「5150」と題された第2期VHの一作目では、デイヴ時代との違いを明確にしようとしたのか、ストレートなカルテット・サウンドから広がりのあるサ
ウンドに変化。この後、「OU812」(’88年)、「FOR UNLAWFUL CARNAL
KNOWLEDGE」(’91年)で順調な活動を展開するが、この時期エディーはアーニーボール/ミュージックマンのエディー・ヴァン・ヘイレン“シグネ
チュア・モデル”ギター、そしてピーヴィーのアンプEVH5150をスタッフと共に開発し(その後、ギターもピーヴィーに移行。息子の名前をとった
“FOLFGANG”を開発、使用している)・・・、イクイップメンツの世界にも革命を起こしている。デビュー以来、ギターに於いては独自のコンポーネン
トを貫き、またアンプではモディファイという通念を定着させた彼は、プレイ同様、オリジナリティーのあるサウンドを作り出すという事でも、他をリードする
存在だった。ここに来て、その集大成を形にした事も、彼の歴史のひとつとして特筆しておきたい。

’93
年、デビュー15年目にして初ライヴ作品「VAN HALEN LIVE : Right Here, Right
Now.」を発表、ライヴ・バンドの真骨頂を見せ付けたが、’95年「BALANCE」の翌年にサミーが脱退。直後にデイヴの復帰説もあったが、後任は元
EXTREMEのゲイリー・シェローンに決まり、’98年「VAN HALEN
III」を発表。それに伴って久々となる来日公演も実現、初期の名曲を含む往年の人気ナンバーもセット・リストに復活させつつ、十八番のエディー・ジャン
プをステージ上で連発してくれた。’01年、ホームページ上で癌に冒されている事が発表され、ファンにショックを与えたが、’02年春には同じくホーム
ページを介して治療の経過が良好である事と、再起への強い意思表明が伝えられている。ロック・ギター奏法とテクニックの進化に大いなる貢献を果たしてきた
革命児エディー・ヴァン・ヘイレン・・・一日も早いこのカリスマのシーン復帰が待たれるばかりである。

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