Top 100 Greatest Guitarists Of All Time – Eddie Van Halen@hmv

数年前、HMVに掲載された文章です。

Top 100 Greatest Guitarists Of All Time – Eddie Van Halen
      


ターヒーローという言葉が最も似合うギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレン。ヴァン・ヘイレンのデビューということで、エディの登場は1978年。どちら
かと言えばロックが社会性を踏まえて考えられていた頃、満面の笑顔でギターをバリバリ弾いていく姿は、ヒーローの登場以外のなにものでもありませんでし
た。ロックンロールにある痛快なまでの満足感を、エディは全身で体現していました。そして、全世界に衝撃を与えたライトハンド奏法。その他スラッピング、
タッピング・ハーモニクスなどなどのギター奏法は、ヒーローが当然持っている必殺技として、多くのファンを魅了しました。個性的なキャラクター、そしてこ
こぞというところで繰り出される必殺奏法の数々。まさしくエディ・ヴァン・ヘイレンこそが最初で最後のギターヒーローだと言っても良いのではないでしょう
か。超テクニカルかつ唯一無二のギタースタイルと、個性の際立ったキャラクターを武器に、瞬く間にトップギタリストに登りつめたエディ・ヴァン・ヘイレ
ン。ギター・シーンに堂々と君臨し続けるその姿は、ヒーローの名にふさわしいものです。

      

エディ・ヴァン・ヘイレンは1955
年1月26日にオランダに生まれています。オランダ人の父とインドネシア人の母との間に生まれた次男です。兄は
1950年生まれのアレックス・ヴァン・ヘイレン。言わずと知れた名ドラマーです。二人は60年代に両親に連れられてアメリカに移住。ミュージシャンで
あった父親の影響で、幼い頃からピアノ・レッスンに通い、音楽に触れていきます。やがて兄のアレックスがギターを、エディはドラムを始めるようになります
が、ある時アレックスがエディのドラムに興味を持ち、叩き出したところ見る見るうちに上達。それを見たエディはドラム・キットを譲りしぶしぶギターを手に
します。ヒーローに武器が手渡された瞬間です。現在と逆の形で始まっていた、という部分が興味深いエピソードでもあります。

      


人は一緒に演奏を繰り返しながら、徐々にロックンロールの魅力に取り付かれ、バンドを結成することに。THE BROKEN COMBS、TROJAN
RUBBER
COMPANYといったバンドを経て高校の時にマンモスを結成。マンモスにはやがてベースとしてマイケル・アンソニーが加わり、さらに当時地元で、マンモ
スと人気を二分していたバンドのボーカリスト、デビッド・リー・ロスが参加。ここでバンドは名前をヴァン・ヘイレンと改め、遂に最強のラインナップが誕生
しました。1975年のことです。バンドはハリウッドにあるライヴ・ハウス「Starwood
Club」などを中心に活動をしていました。この時にヴァン・ヘイレンのパフォーマンスを目にとめたのはなんとキッスのジーン・シモンズ。ジーン・シモン
ズはバンドにデモ・テープの製作とプロデュースを持ちかけますが、この話はうまく進まず立ち消えに終わっています。

      

1977
年、ライブハウスでの評判を上々のものとしていた彼らは、運命の転機を迎えます。いつものように「Starwood
Club」にて演奏をしていたところ、ワーナーブラザーズの社長モー・オースティンとプロデューサーで元ハーパース・ビザールのテッド・テンプルマンが現
れて、24時間以内の契約を迫るという思いもかけない話が持ち込まれることに。バンドはこの話にその場で決意を固め、契約を交わしました。遂に彼らのサウ
ンド、そしてエディのギターが世界に届けられるときがやってきたのです。

      

1978
年、バンドはキンクスのカバー曲シングルYou Really Got Meでデビューを飾ります。2月には1stアルバム炎の導火線(Van
Halen)を発表。ハードロックの醍醐味を余すところ無く詰め込んだこの作品は、新人バンドとしては異例のセールスを記録し、ヴァン・ヘイレンは一躍次
世代ハードロックの旗手として注目を集めます。このアルバムにある若々しい活気、荒削りで痛快なハードロックは瞬く間に多くのファンを獲得しました。そし
てエディのプレイはファンの度肝を抜いたのでした。ライトハンド奏法とはこの時まだ誰もその正体の分からないもので、オーバーダビングだろう、速度を変え
て録音したに違いない、などと噂は噂を呼びエディの革新的なギターは世界中を震撼させたのです。アルバム2曲目「暗闇の爆撃(eruption)」がそれ
です。その他にも、Atomic Punk、On
Fireなど型破りなエネルギーに満ちたハードロックがここにあります。プロデューサーのテッド・テンプルマンの功績も見逃せません。シンプルなサウンド
をそのまま真空パッケージした手腕は見事としかいいようがありません。以降、ほぼ全ての作品に渡り彼はヴァン・ヘイレンサウンドの良き理解者としてバンド
をサポートしていきます。バンドはこの年の6月には来日公演を行い、日本のファンにその勇姿を見せています。

      

全米、全英ツ
アーをこなして勢いを得たバンドは翌79年、2ndアルバム伝説の爆撃機 (Van
Halen2)をリリース。V/Hという文字を中心に据えた、シンプルなジャケットデザインがバンドの自信を表しています。サウンドの方はよりスケールの
増したスタジアム・ロックとなっています。コーラスワークを多用した爽快感のあるクリアーな展開は、このアルバムで確立された個性だと言えるでしょう。
(以降ずっとこのスタンスを押し通している、という意見もありますが・・・)エディのギターに関しては、M7「スパニッシュ・フライ」がやはりギターファ
ンを驚愕させました。今度はアコースティックギターでのライトハンド奏法です。音量を上げて聴いてみると、フィンガリング、ピッキング等ですばやく躍動す
るエディの手の動きが伺えます。そしてこのアルバムでさらに付け加えておきたいのが、巧みなバッキングです。正確なプレイをキープしつつ、ある程度の変化
を加えることで、決して聞き手を飽きさせることがありません。インタビュー等でソロアルバムについて聞かれるたびにエディはこう答えています。「僕はバン
ドの一員なんだよ。書く曲は全部採用してもらえるし、アニキと一緒にプレイしている最高のバンドさ。ソロ活動をする理由が見当たらないよ。バンドの中で輝
けるようなギタリストでありたいんだ。」ギターヒーローとはいえ、エディはいつもバンドを意識したプレイを重視しているのです。この年、早くも2度目の来
日を果たし日本中を震撼させています。

      

80 年、3rdアルバム暗黒の掟(Women And Children
First)リリース。このアルバム、どちらかといえば地味な印象で、また録音状態などもあまり良いとはいい難いものです。ただ、多くのミュージシャンが
この作品をフェイバリットにあげているように、不思議な魅力を持ったアルバムです。というのも全般にアメリカナイズされたハード・ロックを展開するヴァ
ン・ヘイレンですが、このアルバムだけは別で、何故かバンドのダークかつヘビィな部分がかなり表現されているからです。M4ロメオ・デライト、M6理由な
き暴走などのメタリックナンバーがある一方で、最後の曲シンプル・ライムはエモーショナルな構成になっており、ここでは一味もふた味も違ったバンドの姿が
味わえます。どちらかと言えばボーカルのデビッド・リー・ロスの活躍が目立ち、それまでのエディ一辺倒だったバンドの印象を拭う1枚となっています。オリ
ジナル・ナンバーだけを収録した初のアルバムという意味でも、転機となる作品になりました。全米ヒット・チャート6位、プラチナディスクを獲得していま
す。

      

81 年、エディは女優のヴァレリー・バーティネリと結婚。
公私共に充実するなかこの年もコンスタントにアルバムを発表。4th戒厳令(Fair
Warning)をリリースしています。バンドとしてはよくまとまったサウンドを完成させ、ハードな音作りには一層磨きが掛かっています。エディのプレイ
では、やはり冒頭の1曲目ミーン・ストリートのイントロが特筆に価します。これも当時、いったいどうやればこの音が出るのか、と世の話題をさらったタッピ
ング奏法でした。続いて82年カバー曲、未発表曲を中心としたアルバムDiver
Downをリリース。この作品は、シングルカットされたロイ・オービソン作「プリティ・ウーマン」のヒットに気を良くしたレーベル側から持ち込まれた企画
ものです。少し散漫な印象もありますが充実した内容で、特にキンクスのカバーM1Where Have All The Good Times
Goneなどは抜群の相性のよさを見せています。翌83年には精力的なツアーをこなしながら、ロックイベント「USフェスティバル」に150万ドルという
ギャラで参加したことが話題を呼びました。

      

そして83年12/31、1984年を目前にしてヴァン・ヘイレンは屈指の名作
1984をリリース。バンドの最高到達点であるだけでなく、ハードロックの最高峰とも言えるこの作品。シングルJUMPは初の全米ナンバーワンを獲得して
います。曲は最高、演奏は完璧、メンバーのテンションは高い、という3拍子も4拍子も揃ったこのアルバムは絶大な支持を持って迎えられ、ヴァン・ヘイレン
をトップ・スターダムに押し上げました。120%の完成度を誇る、まさにハード・ロックの金字塔です。エディのプレイということで言えばやはりGirl
Gone
Badでしょうか。いったいどこをどう引いているのか耳で追いかけるのも大変なくらいのリフのコンビネーションが続いていき、聴くものを飽きさせることが
ありません。一本のギターで弾けているのが不思議なくらいです。一方でこのアルバムには大胆にシンセサイザーが取り込まれ、結果としてその「JUMP」は
大ヒットしたものの、古くからのファンやギター少年は戸惑ったのでした。バンド内でもこのことは波紋を呼び、ボーカルのデビッド・リー・ロスがバンド脱退
を表明、ヴァン・ヘイレンは重要な二枚看板のうちの一枚を失うという残念な結果に。デイブは、嬉々としてシンセサイザーを弾くエディに対して「ファンはシ
ンセサイザーを弾くお前を見に来てるんじゃない。」と辛辣かつ、愛のあるコメントを残したとか残さないとか・・・ともあれ、このアルバムが達成した成果
は、やがて後続のハードロックが目指す基本姿勢ともなり、後の80~90年代に渡る空前のハードロックブームを形作ることになるのです。

      


ンドは後任のボーカルに、キャリアと実績を備えた元モントローズのサミー・ヘイガーを迎え入れて、すぐに活動を再開。この時期にエディはやはりギターヒー
ローでありながら、バンドというものを重視したといえるでしょう。シンセサイザーへの接近というバランスを意識したサウンドアプローチ、そしてデイブ脱退
という大きな損失にも関わらず、すぐさまメンバーを入れ替えていくあたりに、そのことが伺えます。86年には本格的に活動を再開、7thアルバム
5150をリリース。デビューから続けてプロデュースを受けていたテッド・テンプルマンの元を離れ、プロデュースはVAN
HALEN&MICKONES&DONN
LANDEEという体制。前作に続いてシンセサイザーを取り入れながらもサウンドはタイトになっており、新生ヴァン・ヘイレンの誕生を告げるのにふさわし
い一枚です。

      

88年、盛り上がりを見せていくハードロックシーンの立役者として、モンスター・オブ・ロック・ツアーをスター
ト。メタリカ、スコーピオンズ、ドッケン、キングダム・カムといったそうそうたるメンバーを集めての堂々としたステージングは、まさにヴァン・ヘイレンが
名実共にトップバンドであることを証明しました。6月には8thアルバムOU812をリリース。スタジアム・バンドとしての風格が漂うこの作品。サミーヘ
イガーとバンドとの一体感もより強まって、不動の地位が築かれたことを強く印象づけることになりました。1989年には10年振りとなる来日公演が実現、
日本のファンを喜ばせています。

      

91年、この年はエディ・ヴァン・ヘイレンにとって記念碑的な一年となりました。まず1月に
エディ初のシグネチャーモデル・ギター「EVH」が発表されます。エディのギターはプレイスタイル、テクニカルな奏法だけでなく、そのサウンドにも特徴が
あります。その鍵を握っていたのは、エディの使用ギターです。この時エディの秘密の一旦がシグネチャーモデルという形でファンにも明かされたのです。これ
は衝撃的なことでした。さらにエディに長男ウルフガングが誕生。そして6月に9thアルバムFor Unlawful Carnal
Knwowledgeをリリース。90年代に入り、LAメタルブームからはガンズアンドローゼズらの優秀なバンドが輩出される一方で、メタリカらのバンド
の台頭もありハードロックシーンは盛り上がりを見せていきます。そんな中発表されたこのアルバムは当然のごとく全米ナンバーワンを制覇。堂々と頂点に君臨
し続ける王者の姿を克明に印象付けたのです。

      

派手なパフォーマンスと、高度な技術を伴った演奏によりライブバンドとしての評
価も高かった彼ら。ライブ盤の作品が無いことにファンやきもきした思いを抱えていました。そんな中でリリースされたのが初のライブ作品となる、ライブ:ラ
イトヒア:ライトナウ(93年発表)です。2枚組みのフル・ボリュームに収録された、最高品質のスタジアム・ロックは多くのファンの部屋にヴァン・ヘイレ
ンのコンサートを届けました。同名のライブ・ビデオもリリースされています。(現在DVDもリリース)この頃から、数多くの大御所バンドに見られるよう
に、ヴァン・ヘイレンの活動も緩やかな落ち着いたものになっていきます。

      

95年、11thアルバムバランスをリリース。ボ
ン・ジョヴィやエアロスミスの作品で知られるブルース・フェアバーンをプロデューサーに起用したことが成果を挙げ、ヒットを記録。アルバムからは大ヒット
シングル「キャント・ストップ・ラヴィン・ユー」が生まれています。1984でタバコを吸っていた子供が成長したかのようなジャケットも印象的なものに
なっています。この年、ピーヴィ社とエディとの共同開発によって作られた、シグネチャーモデル・ギター「ピーヴィ・ウルフガング」と専用アンプ
「5150」が発表されています。あの究極のエディ・サウンドを再現するだけでなく、エディの発案により、6弦をスライドさせて容易にE→Dへとチューニ
ングを下げることができるようになっており、ファンならずとも注目のギターとなっています。

      

順調に活動を続ける中、96年初
のベストアルバムBest Of Vol.1-Greatest
Hitsをリリース。しかし、この時期トラブルが発生します。映画のサウンドトラック用に提供する曲に関することで、エディとサミーの意見が衝突してしま
います。結局この話は上手く収めることが出来ずにそのままサミーが脱退してしまいます。ボーカリストの不在、またしてもバンドはこの問題を抱えることなっ
てしまいます。その間、後任に関しては様々な噂が飛び交いました。デイブが復帰するという往年のファンにとってはたまらないニュースが飛び込んだり、また
はサミーの復帰、その他数多くの名ボーカリストの名前があがっては消えていく、というやきもきした日が続いていきました。

      


ンドは98年、衝撃的な発表をすることに。元エクストリームのボーカル。ゲイリーシェローンをボーカルに迎えて新作の制作に取り掛かる、というものでし
た。実力派のバンドと言えるエクストリームのゲイリーによってどんな変化がもたらされるのか、ファンの注目が集まりました。やがて第3期初のアルバムとし
てVAN HALEN
3をリリース。アルバムは実験的な要素を盛り込んだ意欲的なものとなり、健在ぶりを大いにアピールするものになりました。しかし残念なことに、この後99
年にゲイリーはバンドを脱退してしまいます。アルバム1枚のみの参加でした。

      

またしてもボーカリスト不在のまま、この超ビッ
グバンドは活動休止になってしまいます。そこに追い討ちをかけるように、近年のヴァン・ヘイレンは精彩を欠いています。まずエディの癌。タバコの吸いすぎ
により舌癌になってしまったエディは苦しい闘病生活を強いられることになります。さらに2001年にはバンドはワーナーブラザーズとの契約更新を停止され
てしまいます・・・さらにはボーカルの問題・・・様々なトラブルの中でバンドはなんとか持ちこたえている状態なのです。

      

現在
ホームページを見る限り、エディはガンを克服して体調を取り戻したようです。そして、最新のニュースではエディが趣味のひとつであるゴルフ大会に出場し
た?ということが微笑ましくも伝えられています。闘病から復活してギターではなくとりあえず大好きなゴルフ、というこの陽気さにエディの人柄を感じ取れる
ようで、ファンとしては一安心というところでしょうか。ただやはり、エディにはバリバリとあの笑顔でギターを弾いて欲しい・・・というのはファンの共通し
た願いだといえるでしょう。黄金の右腕と称されたライトハンド奏法、タッピングなど数々の荒業をこなすエディの勇姿が見れる日が、近づいているのだと考え
たいものです。

      

ジミ・ヘンドリックスなどと並びギターという楽器の可能性を大きく広げた功績、巧みなバッキングによるバン
ド・サウンドへの貢献。後のギタリストの多くが、幼~少年期に聴いたエディのプレイに多大な影響を受けた、と語っていることからも、いかに彼の登場がロッ
ク・シーンにとって意味のあるものだったが分かります。タイミング、インパクト共に、まさしく颯爽と登場したギター・ヒーローと言えるでしょう。

   

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