Artist Essential – Van Halen@hmv

数年前にHMVに掲載されていた文章です。

Artist Essential – Van Halen

ヴァン・ヘイレンというと、世界中のギター・プレイヤーに衝撃を与えたライト・ハンド奏法はじめとするエディ・ヴァン・ヘイレンの超絶ギター・プレ
イに尽きる部分も、勿論あるが、一方で初代ヴォーカリスト、デイヴ・リー・ロスのショウビズ魂を生かしたポップ性の追求、二代目サミー・ヘイガーを擁して
新たなるハード路線を模索する、といった意外にも柔軟なバンドとしてのヴァン・ヘイレンのユニークさも忘れてはならないところではないだろうか。現在
ヴォーカリストが不確定なまま(オフィシャル情報によると。2001年4月現在)のヴァン・ヘイレンだが、何かあっと驚かせてくれるような展開が待ってい
るのでは、という気がしないでもない。そうしたサプライズを感じられるバンドこそがヴァン・ヘイレンなのだ。

3年頃、カリ
フォルニア州パサディナの高校にふたつの人気バンドがあった。エドワードとアレックスのヴァン・ヘイレン兄弟が在籍したマンモス、そしてデイヴ・リー・ロ
スが率いたレッド・ボール・ジェッツ。やがてデイヴがエディのグループに引き抜かれ、またマイク・アンソニーが加わりバンドは「あのヴァン・ヘイレン」の
四人となった。1975年にはバンド名をヴァン・ヘイレンと改名。ハリウッドを拠点にクラブ周りをしてライヴ演奏をしていった。あるとき、ゴールド・ウェ
スト・クラブという場所で、バンドは、スターウッド・クラブの出演オーディションがシークレットで行われていたことを知らされていない中、演奏を披露。こ
れが見事合格となり、ヴァン・ヘイレンはスターウッドのレギュラー・バンドとなった。一方でこの時期バンドは初代マネージャーとなるマーシャル・バールと
出会い、またそのつてでキッスのジーン・シモンズを紹介されている。そしてバンドはジーンの資金援助でデモを作成したりしていた。

1977年11月、ヴァン・ヘイレンが演奏するスターウッドに、プロデューサーのテッド・テンプルマンとワーナー・ブラザーズ社長モー・オースティンが来店。演奏に感じ入った二人は即座にプロ・デビューを約束。その翌日にはワーナーとの契約が取り交わされたという。

1978
年、キンクスのカヴァー“ユー・リアリー・ガット・ミー”で衝撃的なデビューを飾ったヴァン・ヘイレンは同年、デビュー・アルバム 炎の導火線
(Van
Halen) を発表。エディのライト・ハンド奏法など、彼のギター・プレイが一際注目を集める中、アルバムは結果的に新人としては異例の150万枚の
セールスを記録。ヴァン・ヘイレンは一気に人気者となった。翌1979年セカンド・アルバム 伝説の爆撃機(Van Halen
II)を発表。またこの後の長期に渡る全米ツアーでより評価を高めた。1980年サード・アルバム 暗黒の掟(Woman And Children
First) 発表。同時にツアーを廻り人気を定着させていく。1981年通算4作目となる 戒厳令(Fair
Warning) 発表。この頃からバンドの解散説が囁かれ始めた。理由は圧倒的なギター・プレイヤーとして人気を誇るエディにデイヴが不満をもち始め
た、といったようなものだった。しかしバンドはそうしたウワサをモノともせず半年間に渡る全米ツアーをやり遂げている。1982年、アルバムに先行してリ
リースされたシングル“オー・プリティ・ウーマン”(ロイ・オービソンのカヴァー)が全米12位のヒット(彼らにとって過去最高位)。続いて5作目のアル
バム ダイヴァー・ダウン(Diver Down)を発表。そしてお馴染みのツアーという日々…。

1983年に入ると単発的
なステージはあったもののツアーはなし。そしてその年の12月に発表された6作目1984(1984)が彼らのその後を左右する作品となった。シングル・
カットされた“ジャンプ”は全米チャート5週連続ナンバーワンを獲得。また“ウェイト”や“パナマ”といったシングルもヒットし、アルバム自体も最高位2
位を獲得。ヴァン・ヘイレンは押しも押されぬ超人気バンドとなったのだった。この影には8ヶ月にも及ぶ大々的な全米ツアーによる影響も大いにあった。

1985
年に入ると、ややバンド周辺の雰囲気に変化が生じた。デイヴモントローズやソロで活躍していたサミー・ヘイガー。1986年にサミーを迎えての初作
5150(5150)を発表。ここでも“ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラヴ”などといったヒットを放ち、健在ぶりをアピールしたが、一方でデイヴ不在
というぎこちなさも正直、この時点ではあった。そうした不安材料を吹き飛ばしたのはヒット・シングル“ホエン・イッツ・ラヴ”を生んだ1988年発表の
OU812(OU812)。ここで新たなヴァン・ヘイレン・スタイルを完璧に定着させた。

1991年に久しぶりにテッド・テ
ンプルマンを迎えた、通算9作目のアルバムFOR UNLAWFUL CARNAL KNOWLEDGE(F@U#C%
K)を発表。この時期のハードなサウンドが大展開された快作となった。また翌1992年にかけて行われたアルバムと同名のツアーの模様は二枚組ライヴ作 
ライヴ:ライト・ヒア、ライト・ナウ(Live: Right Here, Right Now.)として同年中に発表され、世界中のファンを喜ばせた。

ややあって1995年になると全米一位を獲得することになる バランス(Balance)を発表。プロデューサーにブルース・フェアバーンを迎えた同作で、ヴァン・ヘイレンは以前とは異なる新たなアプローチで再び世界の音楽シーンの頂点に立ったのだ。


かしここでバンドにまた大きな波乱が起きる。1996年のサミー・ヘイガー脱退という事件だ。同年リリースのベスト盤などを挟んで、次作の ヴァン・ヘイ
レン3(Van Halen III)
(1988年発表)からは元エクストリームのゲイリー・シャロンが加入。しかし彼はこの一作で脱退した、と伝えられており、次回作ではヴォーカリストを初
代のデイヴが復帰し務める、ともウワサされている。まだまだ不透明なバンド周辺だが、これまでしぶといといえるほどに数々の困難を乗り越え、地位を築いて
きた彼らだけに、今後の展開にも要注目だ。

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